デボラの海外宣教の思い出
<連載11>
このチームは、フランス・ルーマニアチームとして導かれ、3週間の日程でしたが、
私たちは体調をくずす者もなく無事に帰国することが出来ました。
当時私は熊本に住んでいました。熊本空港に着いたとき、
主人と3人の子供たちが迎えに来ていましたが、
長男の子の目に涙がうかんでいました。
弟や妹は、まだ小学2年生と1年生で、6年生だった長男は、
少し苦労したようでした。でも、完全に守られていました。
神様に感謝しました。


 その年も押し迫った12月の終わり頃、夜の神学校に学びに行くと、
イリエ・コロアマ兄よりの緊急の祈りの要請が来ているとの事でした。
ルーマニアのアレキサンダー牧師と長女の娘さんが車を運転中、
アイスバーンでスリップして事故が起き、娘さんは死亡、
アレキサンダー牧師はひどい重傷を負い生死をさまよっているとの事で、
祈ってほしいとの事でした。

 神学校の学びを終えて帰宅するため、私は、ミニバイクでまっくらな夜道を走りながら
神様に泣きながら叫んでいました。
「どうして、あの姉妹が天に召されなければならないのですか?」
熊本の冬は寒く、そして、涙はあふれてしょうがありませんでした。
神様はそのような中で静かに一つのみことばをもって語って来られました。

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければそれは一つのままです。
しかし、もし死ねば豊かな実を結びます。」・・・・・と。

彼女の死は、殉教であると語られたのでした。
彼女は20才でした。イエスさまに対する、信仰と愛を日記につづっていたという事でした。
そして、その命をも主にささげますと記していたそうです。
アレキサンダー牧師は、奇跡的に命をとりとめたのですが御家族は、
すぐには娘さんの死を伝えることは出来なかったのです。

 私は、御家族の心の痛みや悲しみが伝わってくるように感じました。
夜、夫婦で共に祈ったのですが、毎日、祈るたびに泣きました。
 美しく成長した最愛の娘を失った悲しみを思うとアレキサンダー牧師のために
祈らずにはいられませんでした。そしてそれは、私自身が10才のとき、
とても尊敬していた、大好きだった父を失ったという傷が
あったからなのかもしれません。

寒い冬は、悲しみと痛みの中で過ぎてゆきました。

3月に入ってイースターの朝、礼拝の前に娘がミッション誌を私に渡してくれました。
ミッション誌を開くとアレキサンダー牧師の娘さんの写真と共に記事が載っていました。
そして、初めて、私は、その娘さんがデボラという名前であることを知りました。
私のクリスチャンネームと同じだったとは・・・。また、泣いてしまいました。
しかし、その日はイースターの日でした。再び天国で会う事ができるという希望に
しっかり立ったのでした。もう悲しむ必要は、ないのだと思いました。

 それから、間もなく、7月にルーマニアにチームが
遣わされるというニュースを聞きました。
私は再びルーマニアに行かなければならないと思わされたのでした。