説教要旨
ローマ人への手紙(17) 6章12節―14節
先週、1~11節までは聖化、きよめの事を話したが、その結果としてどうしたら良いのか。時々私は色々な事を聞かれるが、じゃあ何をして欲しいのか、何を祈るかと聞く事がある。1~11節までは簡単に言えば理論。12~14節は簡単に言えば実践編。つまり聖化にいたっては、こういうことをしていく事が重要であり、それをするかどうか、パウロの命令であるが、これは私達の選びである事を覚ええ頂きたい。<12節>「ですから」とは1~11節までを受けている。この世の中には罪があるわけで、私達は許され続けている罪人、罪性がクリスチャンだったとしてもある。いかったり、ののしったり、また悪い事をしてしまう。情欲と言う言葉は鍵。つまり欲がはらむと罪を生みだす。欲が罪の根源である。ヤコブ1:13~16はローマ6:1と同じで恵みを受ける為に罪にとどまるべきでしょうかと言っている。問題、困難、誘惑があった時に神様が許された、神様のせいだといってはならない。特にこの後、人はそれぞれ自分の欲にひかれて誘惑され、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を見る。つまり、あれがいい、これが欲しい、求める事は大事だが、でもそれを自分の欲で引っ張ってしまう(はらむ)。ここがむずかしいとこ。求めちゃいけないのではなく求めてよい。おいしい物を食べたいなら食べてよい。どうしても欲しいとやってしまうと欲になる。欲望とは食欲、性欲、物質欲、睡眠欲がある。私達には欲望があり、それが神様になくて、過度に行くと罪になってしまうから気をつけなさいとここで言っている。<13節>先週言った、聖化の鍵は神の者となっていく。つまり罪ではなく情欲ではなく私達の手足(行動)、私達が神様にあって私達の手足を神にささげて行く事。神の者になって行く事。これはパウロが進めている事。<14節>今日、特に覚えて頂きたいのは、私達は罪の下、律法の下ではなくて恵みの下にある者だ。これを信じる事である。罪とは欲。もう一つが律法。しなければ、あーしなければならない、こうじゃなきゃいけない。ここは難しい部分であるが自分の判断、つまり神様がこうしなさいと語った時は神の命令である。律法の一点一画は落ちない、神の命令も落ちない。自分の判断、自分の考え、自分の律法とは、隣人の目の中のゴミがあるのに自分の目の中の梁に気づかない事である。つまり自分ができもしないのに、やりもしないのに、こうしなさいとか、あーしなさいとかいう事律法だと言っていると思う。神様の命令、導きは神様にあって簡単である。神を愛し隣人を愛する。これに尽きる。その律法は全うされる。つまり私達が神様の者となって行けば行くほど、恵みの下に置かれていくとここでは言っている。先ほど読んだ13節で「あなたがた自身の・・・神にささげなさい。」神にささげるとは義の器として自分で用いなさいではなく、神様の器として神様の言われるとおり、ただし吟味しつつ、無茶な事を言われても、神様に従う時に恵みの下に置かれる鍵である。さらに覚えて頂きたい。(文責:宮城末子)