説教要旨
ローマ人への手紙(41)14章1~12節
■<1~3>ローマの教会においてコリントでも言われていた「肉を食べる、食べない」の問題があった。当時の肉屋は普通に買ってきた肉と神殿に捧げられた肉が下ろされ売っていた。偶像に捧げた肉が食生活の中で用いられ「これは偶像に捧げた肉だから」と食べない「こんなの大丈夫」と食べると言う問題があった。そこで「食べる人は食べていい、食べない人は食べないでいい」と言っている。これは大事なこと。ある100円均一店は宗教団体関係です。だから「あそこは行かない」という方がいるが私はどちらでもいい。便利で安い必要な物もある。行きたくない人は行かなくていいと言う立場。現代においても霊的にどうなのかという意見の方がいます。それを自分に当てはめるのはいいが他の人に当てはめてはいけない。ルカの福音書6:36~37「さばいてはいけない」と言っている。簡単に言うと神様からさばかれるという意味。憐れみ深くしなさいと語っている。3節に神様がその人、信仰の弱い人を救い導かれた。信仰が弱いとは信じることが強い弱いではなく信仰に関してまだよく分かっていないと言う意味。その人々をさばいてはいけない■<4~6>他の日とは「この日は断食しなくちゃいけない」とか決めている方、それでさばいてはいけないという事。ここは大事な日、この日を逃したらもうさばかれるそういうことではなくて、私たち一人一人が確信を持って歩みましょうと言っている。私達の教会は日曜日と月曜日に礼拝している。私達の教会がスタートした大きなポイントは、私の前任者の牧師は、礼拝は日曜日の午前中だけだった。ある親御さんが子供の運動会に、どうしても行くことを導かれ「夜の礼拝を他の教会でさせてください」と他教会で礼拝した。そしたら前任者の牧師が怒って「神に従っていない」と処分した。それで沖縄で分裂騒ぎが起きたというのがスタート。秋本牧師が介入し「分裂したが両方とも大事にしよう」と沖縄は前任者の牧師が続け、那覇は私が遣わされて来た。礼拝はどれに出ても構わない。来られない時はオンライン礼拝でして下さい。礼拝を守ることは非常に重要なこと。でもこの時間この曜日ここじゃないといけないわけではない。さばくとは、その人の上にあって善悪を判断すること。善悪を判断してはいけないとしている。Ⅰコリント6:19~20私たちは代価を払って買い取られた。さばきの状態から代価を払って神様のものとなった。■<7~9>私たちは主のもの代価を払って買い取られた。ここは重要です。一人一人が神様のものである。神様は自由ですから「私は神のものである」と信じる人と信じない人をさばきません「私は神のものでなくてはいけない」なんて聖書は言っていない。でも私たちは代価を払われて買い取られたことを知って頂きたい■<10~11>これはイザヤ書の45章23節の引用。■<12>Ⅱコリント5章10節。報いを受けることになる。さばくのは神様。この原則を知っていただきたい。「問題を起こした人をさばいてはいけないのか」さばくのではなく注意するのです。自由だから何をしてもいい。それがコリント教会における問題だった。自由だから偶像に捧げた肉を食べても関係ないと堂々と見せびらかすように食べていたように思われる。それに対してパウロはどちらでもいい「でも私はあの人をつまずかせないため肉を食べるのをやめてもいい」自由を奔放に使うのではなく神様のために使いましょう。これがイエス・キリストを信じている者の自由、クリスチャンの祝福。私たちの人生で成したことを神様がさばかれる。黙示録に命の書があって人生の最初から最後までしてきたことを走馬灯のように見せられるとお話しした。でも最後に「あなたはイエス・キリストの十字架を信じているから全てが赦されています」と宣言を受けるのが流れだと思っている。何をやったか明らかにされる。だからこそクリスチャンの自由を神様の為に正しく用いましょうと言っていることを覚えて頂きたい。 (文責:米村美智代)