説教要旨
コリント人への手紙 第一(42) 15章29~49節
■<29>死者の為のバプテスマは今のキリスト教会では行われていない。コリント教会で行われていたこと。諸説があるが、バプテスマを受けずに死んだクリスチャンの身代わりにバプテスマを行っていたらしい。死者の復活を否定して、死者の為のバプテスマに何の意味があるのかとパウロは言っている。■<30~32>エペソで暴動や困難あざけりの中、人生をかけ命をかけて福音宣教し、復活の信仰を伝えていたパウロに対して、それを否定されたも同然。■<33~34>神様にあって正しい知識を持っていない人とは、自分の考えで、これが正しい!死者の復活はない!と言う方々がいた。パウロは、聖書的な考えじゃない、はずかしめる為に言っていると。■<35~38>蒔かれる種とは私達のからだ。それが地に蒔かれて死んで、新しいもの草、木、葉が出てくる。グノーシス主義の霊は善、肉は悪と分離して考えていた影響で、イエスキリストの復活を信じた私達が霊的に新しい命を持つなんて有り得るか?と多くの方が思っていた。マタイ22:23~32でイエス様は、私達を復活し生きる者として下さる、真の神が私達の主と言われた。だから天のみ使い達のようとは、私達は神の命を受ける者だと言っている。32節の「明日は死ぬのだ。飲み食いしよう。」復活が無いなら、人生で罪でも何でも楽しい事をしようと、そんな生活になってしまうと注意を与えている。■<39~44>復活のからだの説明。アダムとエバが最初に栄光のからだに生まれた。ところが罪が入ったゆえ血肉の罪あるからだになった。復活のからだに変わる必要がある。だからイエス様が来られた。ローマ5:16~21アダムによって入った罪の原則は、イエスキリストの十字架と復活によって命の原則に入った。生きている神が私達と共におられるから、賛美するとき、祈るとき、神に触れられていく。そこに癒しが有る。神が復活の力をもって罪を汚れを病をいやして下さる。癒しは復活の前触れ。お試しみたいなもの。地上で神が私達に触れて下さる時に復活の力が与えられ癒し解放が起き祝福が起きる。この時必要なのは、イエスキリストが私の罪の為に十字架にかかって下さった事と共に復活の信仰が重要。■<45~49>覚えて頂きたいのは、復活の信仰を持つ私達は「天上のからだを持つ」。別訳で「天上のかたちを帯びましょう」とある。これは選びが有ると言う事。だから何度も復活のからだが有るとコリントの方々に力説している。なぜなら、復活が無いと信じている人は復活のからだに預かるのが難しくなると思っていたのでしょう。是非イエス様が私の罪の為に十字架にかかって下さったと共に、私の為に復活され今も生きておられ、私達は復活のからだとなる事を信じて頂きたい。(文責:米村美智代)