説教要旨
ローマ人への手紙(21)7章13~25節
■〈13節〉先週お話したロマ書7章12節で、パウロは律法そのものは聖であり良いものだと宣言している。しかし、律法によって自分に死がもたらされた。では律法は良いものなのか。これで悩む方が多い。律法の中心は「神を愛し、隣人を愛する」だが、それができない。例えば、誰かに「ばか」と言ってしまうことも律法に反すること。また律法を破ってしまったと思う。私自身も、内なる肉の性質が働くときに罪を犯してしまう。多くの方が、律法ができないということに関して落ち込み、律法がなければよかったのにとすら思う。■〈14-18節〉罪の話で、昔よく語られた例がある。スリをしてしまう人が「この手が悪いのだ」と言う。しかし、スリをするのは自分。悪いことをしてはいけないと思う反面、肉の欲に負けてスリをしてしまう。このことをパウロは言っている。私は神に仕え、神の御心を行いたいと願う。しかし肉においては様々な欲があり、その欲に負ける。そして罪に負け、その結果、死が入ってくる。■〈19-20節〉だからといって責任がないわけではない。罪が私を引っ張るのだが、それを行うかどうかは私たちにある。創世記のエバがこう言った。「サタンが善悪の知識の木の実を食べても死なないと言ったから私は食べた。サタンが悪い」。食べたのはエバ。これは人類が繰り返し犯してきた。それをするかどうかは私たちの欲。責任は私たちにある。■〈21-23節〉ぜひこの原則を知っておいて頂きたい。私たちがイエス様を信じたときに、新しい命が与えられ、聖霊の命、聖霊の喜びが与えられる。賛美の中で喜びがくる。聖書を読む中で、祈る中で、いやしや救いや解放、主の奇跡を見ていく。しかしそれとともに、私たちの内に罪の原理がある。私たちは赦され続けている罪びと。天に帰り新しくならなければ罪の原理に縛られている。罪の原理とは何か。欲。欲のない人間はいない。いろいろな宗教で、自分を殺し、欲を殺そうとがんばる。でも欲はやっぱり欲。■〈24節〉私たちは罪びと。この地上生涯において、様々な欲があり罪があり、私たちは罪に引っ張られている。救われている罪びと。パウロはそのことを知って「私は本当にみじめな人間です」といった。しかしそのことばかり見続けると、私はみじめだ~となってしまう。ではどうしたらいいか。■〈25節〉「私たちは神に感謝すべきです」。つまり信仰を用いなさいとパウロは言っている。私はTLEAに来た時、週報の最初に「すべてのことを感謝する」と書いてあるのを見てびっくりした。そこから感謝をはじめ、感謝のことが少しずつひらかれていった。良いことも悪いこともすべてを感謝。Ⅰテサロニケ5章に「すべてのことを感謝しなさい」とある。神様が言っているから神の言葉に歩む。■Ⅱコリント4:16-18参照。この「見えないもの」、すなわち神の言葉は永遠に立つ。感謝は永遠に立つ。そして同時に感謝することを通して、私は内なる人を強めている。いつもお話しするマーリンさんといるだけでうれしくなる。マーリンさんは毎日のように感謝をし続ける中で内なる人が強められ祝福されていった。外なる人は弱ったとしても、内なる人は日々新しくされる。その恵みを受けていただきたい。(文責 フィベ知念)