説教要旨
ローマ人への手紙(30)10章1~10節
■<1~2節>パウロは、異邦人に遣わされていたが、それと共に、ユダヤ人伝道、イスラエル人の救いに関して非常に願っていた。ローマにいるユダヤ人の方々に対して、またローマ教会に対して救いを願っていた。2 節に彼らは神に対して熱心であると証しする。ユダヤ人は熱心、今も熱心。ただパウロは、その熱心は聖書的な熱心ではないと言っている。今日まず知って頂きたい事は、熱心に神様を求め、祈るとか教会は時々使うがパウロは熱心には2つあると言っている。1つは主にある熱心。神様にある熱心。もう1つが神にない熱心。神にない熱心とは■<3節>自分自身の義を立てようと神の義に従わなかった。だから神様の義にある熱心ではなくて自分の義の熱心をユダヤ人は持っていた。自分の義とは私は正しいとする事。いい例がイエス様は取税人(罪人)とパリサイ人が祭壇に向かった祈った時の事をあげているが、罪人は胸を叩いて、神様、こんなものを哀れんで下さいと神様の哀れみを求め、律法学者は、私は、神様あなたに1/10を捧げ毎週、断食をしております 。特にこのような罪人でないことをありがとうございますと言って祈った。その事に対してイエス様は律法学者ではなく、その罪人が義となると宣言した。つまり自分を自分の義として例え熱心であったとしても神の義ではない。1番簡単なのは神様の前に私は正しくないと言える。ヤコブ書 2:10に律法1つでも間違えたら断言律法となる。こうしてはならない、ああしてはならない。だから1つでも間違えたら罪。旧約聖書は私達の養育、つまり神様は自分にはできないことを見せて神様により頼むものとして導くためのもの。ヨハネの福音書3:16は私達が救われ永遠の命が与えられているように1人と して滅びることなく私達の家族、友人、私達の周りの方が神様は滅びることを望んでいない。神様は家族、周りの方々を救おうとしている事を神様が私達を愛して下さっている事をもっと知るべき、期待すべきである。■<4 節>ここですごい事が書いてあるが、キリストが律法を終わらせたのは、律法がなくなったわけではなく、律法が成就した。律法1つでも犯かしたら罪とするなら律法終わらせる必要があった。つまりイエス・キリストが十字架にかかってイエス・ キリスを通して救いの道が開かれる。律法を通して神様は私達に神様の救いの道へと導こうとしたが、それは、できないことを私達に分からせて下さった。だからこそイエス・キリストの救い、神の義がそこにあり十字架の救いがある。ここで信じる者は皆、義と認められる。■<5~6節>には誰が天に登るだろうかとある。 天に登るとは神様に救われる事を表す。誰が神様によって救われるのかと言う事は十字架の恵みをなくすことになる。■<7節>地の奥底、(申命記30章)の言葉。パウロは地の奥底、地獄の事だと思う。キリストが罪を負って地に下られた事をなしにする事になるがそうではない。■<8節>御言葉、救いの祝福は私達の口にあり心にある。初代教会の方々は神様によって救われている、イエス様によって救われていると告白していた。告白は私達の霊的な祝福、感謝も同じである。言葉にする。■<9~10節>は同じことを言っている。口で告白する。もし問題、困難があったら是非、告白してみる。神様が共にいる。約束が与えられているなら告白してみる。言葉に出し感謝をする。それが信仰の祝福になる。口で告白して救われる。第一コリント12:3節、「イエスは主」と告白できるのは神様の聖霊様の力。今、私はまだイエス様信じてない方が来られたら、イエス様を信じるお祈りを一緒にできますけど、どうですかって言って、伝道する。告白する事が重要で、一緒に信仰告白することを進める。救うのは神様。道筋ができれば神様がして下さり後の責任は神様。是非、そのことを覚えて頂きたい。(文責:宮城末子)