説教要旨
ローマ人への手紙(22)8章1~11節
8章は難しいと言われるが、読み方によっては分かりやすくなる。■<1~3節>「こういうわけで」 とは、こういう理由でという意味。これは7:7そういうわけで律法は罪なのか?という事に対して、それは違うとパウロは言っている。律法が死に導く事が仮にあったとしても、今私達は罪に定められないとパウロは断言する。その理由はキリスト・イエスにある命の御霊の原理が罪と死の原理から解放したから。今日、特に覚えて頂きたいのは、この命の原理、罪の原理。命の原理とはイエス・ キリストを信じた者に与えられる聖霊様。罪の原理とは罪とは、まと外れ自分のしたい事する。この後、何度も出てくる肉という言葉がある。全くイコールではないが、罪の原理は肉、欲であると見ると、この8章の前半の部分が分かり安くなる。この肉によって、罪によって無力になったと読みやすくなる。つまり神にない罪や、欲によって私達は神様と共にいる事ができず離れてしまう故に律法つまり良きものができなくなった。それが罪の原理。それを神はして下さった。だから肉において処罰された、これは十字架。つまり律法によって救うことのできない、そこに到達することのできない私達を神様はイエス様が十字架にかかることによって私たちが神様の救いに到達する事ができる祝福を受けたと、ここで言っている。十字架の場面を思い返していただくと分かり安くなると思う。旧約時代においては神殿に幕屋を模して幕がある。十字架の時にその幕が上から下まで真っ二つに裂けた。それは私達の罪、不義、けがれとか神の聖なるところと分け立てる幕が十字架によって断ち切られ、ただ私たちの罪のために負われたのではなくて神様のとこに行くことができる道をイエス様が作って下さった事である。それが十字架の祝福。■< 4 節>律法の要求とは、神を愛し、隣人を愛する事が一番簡単。肉によると、隣人を愛せなくなり律法の要求を全うできない。しかし神様にあって十字架の愛によって全うできる。■<5~7節>肉の思いと罪は、ほとんど同じ。なぜなら神様は罪を行うことはできない。私達の欲、 怒り、様々な神にないものは神様に従うことを妨害する。だから、先週、信仰に歩みを歩むためには喜び感謝することを話した。これは理論じゃなく実践。ここは今、理論を話しているが、そのことを実践するには、第一テサロニ5章に「全ての事について、感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなた方に望んでおられることです」。これは神の命令ではなく、無理やりじゃなく選ぶか選ばないかは私たちの側にある。だから、これは罪と一緒。罪を握り続けるか離すかどうかは私達の側にある。だから御霊の思い、神様の思いを受ける歩みをするために神様からの思いを受け取っていく事が大事。■<8~9節>ここは大事。御霊を持っている者は神のものだから皆さん1人1人は神様のもの。神様に委ねるべき1つの事が分かってくる■<10~11節>死ぬべき体であっ私達を生かす者とされたのは祝福。10節には肉にあるものは死。罪からくる報酬は死。でも私達がイエス様を信じ私達の内に聖霊様が住まわれ導いて下さっている。それを義の家に生きていると言う。つまりイエス様を信じたことのゆえに私達は神様との正しい関係に入り、生きるものとなった。神を愛し従う者に神が全てのことを働かせて益としてくださるという素晴らしい御言葉を私たちは受けることができる。つまり皆さんは私達がイエス様を信じることを通して御霊を受けていることが私たちの 義、神様の義となる。さらに、そのことを覚えて頂きたい。(文責:宮城末子)。