説教要旨
ローマ人への手紙 (14) 5章6~11節
■1~11節で「神の義の祝福」をパウロは語る。一つは「神との平和」を持つこと。もう一つは9節の「神の怒り」から救われていること。神様の怒りとは黙示録 6:12~17に「・・・御座にある方の御顔と小羊の怒りから、私達をかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。誰がそれに耐えられよう。」とある終わりの時に全人類全に注がれる神の怒りのこと。それに対して、イエス様を信じているゆえに私達は神の怒りから救われる。「神の義」とは神との平和、神が共にいて下さるという事。人の怒りは感情だが、神の怒りは聖なる怒り。その聖なる怒りを持ってイエス様を信じていない全ての者に神の怒りが注がれる事が書かれている。第一テサロニケ1:10「やがて来る御怒りから私たちを救い出して下さるイエスが天から来られる・・・」つまりイエス様が来られる時は御怒りの日でもある。それが黙示録6章の第6の封印の裁きの怒り。だからいかに凄まじい怒りかを是非知って頂きたい。■<5:6~8>私達が弱かった時とは、罪があった時。神様から離れ裏切り逆らう罪ある私達の為に、イエス様を十字架にかけて愛して下さった。ヨハネ3:16「神は、実に、その一人子をお与えになったほどに、世を愛された。」これは理解しようと思っても理解できない。受け入れ難い、どうしようもない者を神様は愛して下さった。罪を罪とする裁きは正しいが、それを罪なき者とする為にイエス様の十字架がある。■<9>イエス・キリストを信じる者が受ける義の祝福は、世の終わりに来る神の最大の怒りから救われるのはなおさらだと言っている。■<10~11>「和解」。第二コリント5:17~21、誰でもイエス様を信じ救われているなら、神の怒りを受け神が共に居ないその古いものは過ぎ去って、新しい者になった。これが神との和解。新しくなった私達は、神との和解を持つ者であり、神の和解を伝えていく者である。神様との和解とは普通の仲直りのような和解ではない。ここで言う和解は、私たちのような、どうしようもない神から離れている罪人で、怒りを受けて当然なのに、それをキリストの十字架によって赦して「和解しましょう」という、一方的に上から注がれる恵み。「神の和解を受け入れなさい」(20節)だから、受け取ればいい。それは信じること。信じる時に私達は神との和解を受けていく。イザヤ53章のイエス様の十字架の箇所に癒しと回復があり、キリストの痛みがある。それは神との和解の結果、救いの恵みだけではなくて、癒しと回復の特権を受けている。イエス様の十字架を信じれば救われる。でも信じることは和解することの一歩目。その結果、私達の歩みの内に神様が共にいて下さり、そして神様の怒りから救われる祝福が、神との和解の中にある。和解の上に与えられている祝福。(文責:下地直美)