礼拝生中継
今週の週報
説教要旨
ローマ人への手紙 (8) 3章1~8節
■〈1節〉アブラハム契約で「あなたがた(ユダヤ人)を選民とする」といわれた一番のしるしが割礼。割礼に誇りを持っていた。当時、割礼を受けていない者たちは天国に入れないという意識があった。パウロはローマのユダヤ人に、割礼にどんな益があるのかと問う。■〈2節〉第一に、ユダヤ人は神の言葉をゆだねられている。つまり神の言葉を持っている。信じているかどうかは別。旧約時代からずっと神様の約束である旧約聖書を持ち続け、伝え続けたのはユダヤ人。これは大きな祝福であり益であろう。■〈3節〉ユダヤ人が真実でないとするならば、神の真実は無になるのか。■〈4節〉ユダヤ人が真実でなかったとしても、絶対に神様は真実である。このことが私たちの信仰において大事なカギ。私たちが疑ってもまちがえても、神様は正しいとする。これは信仰の真実。4節は詩篇51:4の引用。詩篇51篇はダビデがバテシェバとの罪を犯した時のこと。ナタンに罪を示されたとき、ダビデは即座に「私は主に対して罪を犯した」と悔い改めた。その瞬間ナタンが、主もまたあなたの罪を赦されたと宣言された。本当は死刑になるべき罪。どんなに罪があったとしても、神様に悔い改めたら赦されるというありえないことを神様はここで言っている。■〈5節〉罪を犯しても、その罪を赦し解放し、祝福を現わしてくださる神様がいるならば、罪を犯してもいいじゃないかと考える方が出てくる。しかし絶対にそんなことはない。■〈6節〉今日ぜひ知っておいて頂きたいのは「神様が正しい」ということ。罪の語源は的外れ。正しく神に向いている所からズレている事。正しく神様に向き、いつも神様を正しいとしていく。でも私たちは正しく神様に向けない。それでもここで聖書が言っているのは、イエス様の十字架の恵みによって、イエス・キリストを信じる者はすべて赦される。神の子となる。どんなに罪があったとしても、イエス・キリストを信じ十字架を信じ、罪を告白し、そして神様に歩む私たち一人一人は、救われた者、神のこどもである。■〈7-8節〉私たちは罪人。ただ、赦され続けている罪人。イエス様の十字架を信じて私たちは罪赦された者だが、天国に帰って栄光の体に変わるまでは、私たちに罪性がある。クリスチャンでも罪を犯したり、間違うことがある。ではその罪ゆえに天国に行けないのか。神様は、イエス・キリストの十字架を信じる者が救われ天国に行くと約束している。たとえそのあと罪を犯したとしても、悔い改めるなら赦されて、全き神の子となる。毎週毎週礼拝で、私たちは聖餐式を行う。それは何か。最初に悔い改めをし、キリストのまことのからだ、まことの血潮を受けていく。つまりリセットされて神様の前にもう一回新しい週を歩みだすという恵み。聖餐は非常に重要な祝福である。(文責 フィベ知念)
日付
音声
説教要旨
聖書箇所
2025/09/14
音声
-
ローマ 3:9-20
2025/09/07
音声
説教要旨
ローマ 3:1-8
2025/08/31
音声
説教要旨
ローマ 2:17-29
2025/08/24
音声
説教要旨
ローマ 2:12-16
2025/08/17
音声
説教要旨
ローマ 2:1-11
2025/08/10
音声
説教要旨
ローマ 1:26-32
2025/08/03
音声
説教要旨
ローマ 1:18-25
2025/07/27
音声
説教要旨
ローマ 1:8-17
2025/07/20
音声
説教要旨
ローマ 1:1-7