説教要旨
コリント人への手紙 第一(26) 10章23~11章1節
■8章からの偶像にささげた肉に関しての最後。■〈23-24節〉私達はすでに罪赦され自由。だからと言って何をしてもいいわけではない。私達はイエス様を信じる者として、御体で、そして社会の中で生きている。その中で、神を愛し隣人を愛し生きることを心がけなさい。■〈25-26節〉前回は神殿で、今回は日常生活の中での偶像にささげた肉の問題に関して。かぎは「主のものである」。すべて主の許しなしには何も起きない。だから全てを感謝する。「良心」とは心の中にある善悪を判断する心。■〈27―29節〉ノンクリスチャンの方に招待されて食事に行くと、偶像にささげた肉が混じることが多かった。その時、これは良い事か悪い事か考える必要はなく、どれでも感謝して食べなさい。■〈28―29節〉しかし「これは偶像にささげた肉です」と言われたときには、食べるのはやめなさい。それは、心配してくださるその人のために食べないのであって、裁かれるからそうするのではない。■〈30節〉感謝して頂く。神様が共にいるから大丈夫。偶像にささげた肉のことは、清明祭や葬儀など日常の色々な場面に当てはまる。そのとき、私たちは自由だからと自由にふるまっていいか。それは違う。葬儀では、偶像礼拝を避けるために献花をしている。そして、その遺族のためにとりなし祈る。それが神にある自由。■〈31節〉今日のかぎは31節「神様のために」。毎週教会に来、またインターネットで礼拝に加わっている。それは牧師のためではない、神様のためにしていること。私たちは神様と共に歩む者である。そしてそれは日曜日だけではなく、日々の生活の中でも神のために歩む。その時自由に歩むのではなく、隣人の良心を思い、その自由を用いていく。まず隣人のために祈る。それが神の栄光を現わす大きなかぎ。■〈32節〉全ての人に対して、その歩みを妨害しないように。その多くは「ことば」「態度」。人のことを言いたい人がいる。しかしそれがつまずきとなるなら言わない方がいい。■〈33節〉なぜパウロがそう言うのか。それは人々が救われるため。救われていない方々がイエス様に触れられ、イエス様を信じ、イエス様に立ち返ることができるように。「自分の利益を求めず」つまり自分のためではない。神様のためにしている。これが大事。■〈11章1節〉パウロは、聖書を調べ、祈り、神様と交わり、神様に聴き、キリストを見習うと同時に、そのことを人々に見せた。私を見習って下さい、そして私のあとに続いてキリストを信じて下さい。これがパウロの願い。私も皆さんに、ぜひ神様を信じ、神様のために生きて頂きたいと願っている。(文責 フィベ知念)