ルーマニアに導かれて
 〜20年目の真実〜


ひとつの御言葉と1冊の本によって、
ルーマニアに行きたいという思いが与えられました。
20年後に私は真実を見ました。


私は35年ほど前に、北海道でイエス様を信じ救われました。
17歳の終わりの頃でした。
そして聖書を読んでいく中で、
ひとつの言葉が心に強く響いてくるようになりました。

それは、
「全世界に出て行き、すべての作られた者に、福音を述べ伝えなさい」
(マルコ16章15節)という御言葉でした。


私は宣教師にならなければならないと感じました。
そのようなときに、1冊の本を読んだのです。
それは、リチャード・ウォムブランドという人が書いた『地下運動の声』という本でした。
著者自身が信仰のゆえに秘密警察に捕らえられひどい拷問を受けているときに、
西側のクリスチャンたちが多くの保釈金を支払ってくれて助け出され、
アメリカに渡って共産圏伝道をしている人でした。


与えられた思い


その本の中に、ルーマニアのクリスチャンたちがさまざまな拷問に耐えて信仰を守り、
「迫害する人を赦し、とりなし祈っている」ということが書いてありました。

私はとても強いショックを受けました。
共産主義の国がこのような迫害をしていることが信じられませんでした。


そして、一番悲惨なのは両親が投獄されて残された子どもたちでした。
学校へ行くことは許されず、近所の人たちは助けると処罰されるので
助けることができない中で、子どもたちは路頭に迷ってしまうと書いてありました。


私はとても心が痛み、神様に祈ったのです。
「神さま、迫害の中にある子どもたちを助けてください」と。
そしてウォムブランド牧師の共産圏伝道の働きのために献金を送り始めたのでした。

23歳の頃のことでした。このことを通して私の心の中に、
海外宣教に行くならルーマニアに行きたいという思いが与えられたのです。



深く真実な神さまの御手
 

それから20年が過ぎた1992年4月、私は夫とともに神学校に入学し、
6月に私は20年前に神さまに祈った国、
ルーマニアに海外宣教の働きのためチームの一員とし導かれたのです。


  (写真 イリエ・コロアマさんと、妹さんと一緒に。)


最初に奉仕することになった教会は、
ピストリッツァという町にあるザイオン教会でした。
日本チームが教会に入り通路を歩いていたとき、
突然聖歌が歌われ始めました。
その賛美を聞いたとたん、私は泣き出してしまったのです。
そのとき自分がどうして泣いているのかわかりませんでした。
でも後で、神さまがどんなに真実な御手を持って20年間私を
導いてくださったかを深く思わされました。


私が救われたのは福音派の教会でした。
それからペンテコステ派、カリスマ派と、
私は北海道、関東、四国、九州と導かれ日本を縦断していたのです。
海外宣教を示されてから20年たったときに、
神さまは私を海外宣教に召しのある教会へ導いてくださったのでした。



私は大きな喜びに満たされてしまいました。
それからチームはザイオン教会での奉仕を終えて、ラダウッという町に移動しました。
この町では、ストリート・ミーティングと呼ばれる路上集会が3日間に渡って行われました。
市場のそばにある広場で日本チームが賛美すると、
珍しいのか100名以上の人々が集まってきました。
救いのメッセージを語り終わった後に、
救いを求める人々といやしや解放を求める人々のために、
チームで祈るときがもたれました。
多くの人々が祈りを求めてこられました。


また、この町ではイリエ・コロアマさんが神さまに示されて
建設している孤児院を見学したり、
この孤児院のために初めての祈り会がもたれ、
みなで祈ったりしました。また貧しい人々や病人を訪問したりもしました。


 (写真 集会後、教会の姉妹たちと一緒に。)

私は聖日礼拝の中で、ルーマニアに導かれた証しをさせていただきました。
聞いた人々が泣いていたということを聞いたとき、
まだ迫害の傷がいやされていないのだろうかと感じました。
私はルーマニアのクリスチャンや他の方から、何人もの人たちに抱きしめられ、
ほおにキスされました。もちろん私もお返ししましたが、
イリエさんが「日本から来てくださったというただそれだけで、
ルーマニアの人々は神さまの愛がわかるのです」と語っておられました。
私たちが、「出て行く」ただそれだけで……。

そして私自身にとっても神さまの愛を知るすばらしいときとなりました。



あれから11年が経ちます。
私たち家族は、9年前に鹿児島の地に遣わされ、教会の働きに導かれました。
日本に最初に福音が伝えられた地から、
世界中に福音をたずさえて出て行く事を願い祈っています。


デボラ大内