救いと癒し

〜自閉症の子どもを通して

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【第1回】 誕生から娘の病気を受け入れるまで


「神のわざがこの人に現われるためです。」 (ヨハネの福音書9章3節)


●●娘の誕生●●

  私は長子が男の子だったので、次は女の子が欲しいと願っていました。
女の子が生まれた時、本当にうれしく、将来に夢膨らませていました。

 しかし、半年たつころから変だなぁと気付き始めました。
表情に乏しく親や人に関心を示さず話し掛けても反応がないのです。
この子は自閉症では?という不安と恐れ、
また、娘より後から生まれた子どもたちがどんどん成長していく中で、
娘はまったく言葉も出ない、いろんなことにこだわりがあり、
その通りにならないと泣き叫び壁に頭をぶつけたりするのです。


 そんな娘を見ながらどうしたらいいのか分からず、私も一緒に泣きたい気分でした。
「どうして、なぜ?この子だけが?」と娘を受け取ることができず、
また、自分を責め、娘の将来を思い煩い、暗い日々を過ごしていました。


●●一筋の光●●

  そんな時、長男の通う教会付属幼稚園に、
田原米子さんという手足を失った方が招かれ講演してくださいました。
そして、こう話されたのです。「子どもは神が与えてくださったものです。
たとえどんな障害を持った子でも、それはあなたなら育てられると思って、
神があなたに与えてくださったのです。自信をもって育ててください」と。
私は一筋の光を見た思いでした。「私にはその神は分からない。
でもその神がおられ、この子を私に与えられたのなら信じて育ててみよう」と思いました。

幼稚園に入るのを嫌がり座り込んでしまった娘(4才)

●●幼稚園入園●●

  娘を病院に連れて行くと「自閉症」と診断され、
原因も分からず、これといった治療法もないということでした。


 しかし、なぜか私には平安がありました。ただ気の休まるときがありませんでした。
ちょっとしたすきにいなくなったり、危険な物を口に入れたりしていたからです。
でも、せめて幼稚園だけでも普通の子どもたちとともに過ごさせたいと願っていた私は、
長男の通っていた園に娘を連れて行き、自分の気持ちを正直に話したところ、
快く引き受けてくださったのです。


 入園当初の娘は名前を呼ばれても振り向きもせず、じっとしていられず、
各クラスを自分の気分次第で回っていました。
それでもクリスチャンの教師の方々は温かい心で見守り、
また、子どもたちも最初は戸惑いながらも娘のできないところを手助けし、
何かできたとき「わぁー、彩ちゃんができたー!」と、
クラス中で歓声を上げ喜んでいました。
娘はきっと心と体で愛されていることを感じ取っていたのだと思います。


●●娘の成長とみことば●●

  娘は著しく成長していきました。
そして、私も娘とともに教会学校へ行くうちにみことばに触れ、
変えられていったのです。一つのみことばが深く心の中に入ってきました。

 「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。
『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。
この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。
『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざがこの人に現われるためです。』」

(ヨハネの福音書9章1節〜3節)

 私はこの「盲人」を娘に置き換えました。
神のわざがこの子に現わされるためだと。
ありのままの娘を受け入れたのです。
 


【第2回】 学校生活


●●幼稚園で●●
 
  娘は入学当初、みんなと一緒にするのを嫌がりポツンと1人でいたり、
ほかのことをしたりしていました。しかし、ほかの子どもたちが
「わぁー、彩ちゃんがしゃべったー!」「わぁーできたー!」と喜ぶその姿に、
娘は何かを感じ取っていたのではないでしょうか。
友達のまねをすることから始まって、少しずつ集団の中に溶け込んでいきました。


 この幼稚園時代に、娘と私はよく根気比べをしました。

娘はすべてにおいてこだわりがありました。
食事においてもです。ご飯をまったく受け付けないのです。
ある日、私は「彩、今日はご飯を食べないと何も食べられないよ」と宣言し、
ご飯を少しお茶わんに入れ、渡しました。
すると「イラナーイ」と流しに捨てに行きます。
「捨ててもいいよ、ご飯はまだたくさんあるから」と、また入れる。
「イヤ!イラナーイ」と捨てる。これを何度繰り返したか分かりません。
娘は泣き叫び、床をドンドン足で踏み鳴らしパニック状態です。
しかし、とうとうシャックリをあげながら、「フイカケ!」と叫びました。
ふりかけをかけてやると、泣きながらご飯を一口食べたのです。
次の日から、何事もなかったようにご飯を食べ始めました。

 娘はこの2年間で著しく成長しました。
入園式ではじっとしていることができなかった娘が、
きちんと座り、呼ばれたら「ハイ!」と返事をし、卒園していきました。


●●小学校生活と祈り●●

  そして、普通の小学校へ入学できたのです。
長男と手をつないで学校へ行く娘を見ながら祈りました。
「イエスさま、この子を守ってください。もし、いじめられて帰ってきても、
ただ抱きしめてやれる母親にしてください」と…。

  ある日、帽子を無くしランドセルは泥んこで帰ってきました。
「彩ちゃん!えらかったね」とギュッと抱きしめてやると「ワァー」と泣き出しました。
ひとしきり泣くと、何事もなかったようにケロッとしているのです。

  小学校、中学校、高校といろんなことがありましたが、
「学校に行きたくない」とは一度も言いませんでした。
かえって私の方が母親としての感情がズタズタで、
娘の守りの祈りよりも「主よ、あの子どもを赦せるように、
愛せるように助けてください」という祈りの方が多かったように思います。

  こんなこともありました。その日は授業参観でした。
クラス(小1)に行ってみると、音楽の授業で、みんなピアニカを使っての授業なのです。
娘1人、教科書の後ろに付いている紙の鍵盤を使っていました。
私の胸はつぶれるような思いでした。
「彩、ゴメンネ。もっと早く気付けばよかったね、ごめんね」と、
心の中でわびました。

  そのことがあってから娘は自分で時間割を調べ、
ハンカチにアイロンをかけ、すべてを準備してから休むようになったのです。


●●神様の光●●

  神さまは本当にあわれみ深いお方で、この自閉症の子どもたちには、
特別の守りと助けがあるように思えて仕方ありません。
危険なこともたくさんあったにもかかわらず、主の守りは完全でした。
この子を通して私は神さまの深い愛に気付かされ、
自閉症の娘を下さった神さまの愛を知ったのです。
 


【第3回】 巣立ち


●● 反抗期、そして自立 ●●  

 娘は小学2年の時、イエスさまを信じバプテスマを受けました。
その後、転校したので担任に娘が自閉症だった事を話すと、
ビックリされ、「まったく分かりませんでした」と言われました。
神さまはいやしてくださったのです。

  中学に入り、娘は反抗期を迎えました。
反発して教会に行かなくなるということも許されました。
私が礼拝から帰ってみると、本棚はひっくり返され、
お皿は台所で割ってあるということも度々でした。
私は悲しくなり、
「イエスさま、私はこの子がこんなことをするために
育ててきたのではありません」と祈りました。
そしてハッと気付かされたのです。
「この子、成長したんだ。お母さんと呼ぶ事もできなかった子が、
私に反抗するまでになったんだ」と。
そして「イエスさま、すみません。感謝します」と祈りました。

  祈りをしていく中で、神さまに教えられたのです。
娘が私から自立したがっている事を・・・。
それから、口出し・手出しをやめ、祈り見守る事にしたのです。
すると少しずつ鋭い目つきが柔らかくなり、
だんだん落ち着いていきました。

中学時代の娘(妹と)


●● たくましく生活力のある子に ●●

  「高校卒業後は友達3人で東京へ行きたい」と言い出し、
アルバイトを始め、高校の3年間やり続けました。
そして車の免許も取得し、東京へ旅立ちました。不安はありましたが、
夫と相談し送り出す事にしたのです。神さまにゆだねて・・・。
そして1年間東京にいて、帰ってきました。


  娘は今27歳です。家族から離れ、
宮崎県の山や田畑のある自然の中で、
大好きな犬と一緒に働きながら生活しています。
時折帰ってきますが、家族の中でこの子が一番たくましく生活力があります。


●● 教会の助けと神さまへの感謝 ●●

  神さまは、この子を通して私を教会へ導いてくださいました。そして「父よ。彼らをお赦しください。
彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
(ルカの福音書23章34節)
と祈られたイエスさまの愛を知った時、
この方の愛は本物だと思いました。
この方について行きたいと思いました。
自分を責めていた事から解放され、罪が赦され、
生かされている事を知り、イエス・キリストを信じ受洗しました。
現在の娘

 娘が幼稚園の時、信仰生活の中でもいろいろなことがありました。
しかし、受洗してから教会につながり続けてきました。
教会はいつもいつも娘のために、家族のために、
とりなしの祈りをし続けてくださいました。
娘がここまで成長したのも、教会の支えの祈りがあったからだと思います。
また、娘を受け取ってくださった幼稚園も、
その後も23年間いろんな障害児を受け取り続けてくださっています。

  イエスさまが自閉症の娘を下さった事を本当に感謝しています。
この子を通して、多くの学びと、多くの人々との出会いがあり、
私自身も成長させられたのです。

「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざがこの人に現われるためです。』」(ヨハネの福音書9章3節)

  主の御名をほめたたえます。

( 野見山かほる)