主日礼拝説教要旨
2013年9月22日 ヨハネ森啓一牧師
ヤコブの手紙1章12節~18節「試練と誘惑」
試練を喜ぶ人は、信仰を用い 問題のただ中でその後ろに神の祝福が用意されていることを確信する力を持っている人です。だから試練を通ることができるのです。その人には いのちの冠が用意されています。試練を喜び 忍耐を持って通過し 神に良しと認められた人は、「よくやった忠実なしもべ」と神に褒められるのです。「いのちの冠」は、イエスキリストを信じ 試練を通過した者が受けるものです。いのちの冠は ギリシャ語で「ステファノス」。初代教会で初めての殉教者ステパノの名です。殉教して天帰った者には、特別な恵みが この地上で更に永遠の世界で用意されているのです。「試練に耐える人」とは、神に忠実に遣える者なのです。 誘惑される者は 自分が悪いのではなく神が悪いと言います。神は全ての創造主であり、サタンを造ったのも神。サタンが誘惑することを許したのも神。だから神が悪いというのです。神は私たちの信仰を立て上げるため 信仰の試しとして試練を許されます。サタンから誘惑されたとしても 必ず神は勝利を与えらるのです。神は決して誘惑することはありません。神は光であって暗い所がないからです。誘惑されても 罪を犯すのは自分です。人の内側に欲望が芽生え、それが罪の行動をおこさせるのです。罪は その人の内側から出てきます。赤ちゃんがお腹に宿った時から命があるように、罪は行動が出てくる前 思いの内にある時から始まっているのです。だから思索感情を変えなさいと神は語っています。意識して思索を変えていく必要があるのです。 「良い贈り物」とは贈るという行為であり、「贈り物」とは「完全な賜物」です。「完全な賜物」とは イエスキリストを通して与えられた永遠のいのちです。神は災いを与える神でなく、愛するひとり子さえ私達のために十字架で殺してくださったほど 私達を愛してくださった方なのです。だから決して神は 誘惑することはありません。私たちを祝福される神なのです。神が許される試練は、 最終的には祝福に変えられる方なのです。だから私達は 試練に対し信仰を用い喜んで神をほめたたえてまいりましょう。喜べない時は 神から喜べるように知恵をいただいて歩んでまいりましょう。(文 小川)