主日礼拝説教要旨
2013年4月28日 ヨハネ森啓一牧師
へブル人への手紙10章1節~18節
今まで、大祭司、契約、聖所が変わった事に付いて学んで来ましたが、ここは生贄について書かれています。
1節の「後に来るすばらしいもの」とはイエス・キリストを指します。
律法は、イエスキリストの影であって、生贄(動物や穀物)によって、神に近付いて来る人々を完全にすることは出来ないのです。 もしも、罪が完全にゆるされるなら、人々は罪を意識すること無く、毎年、生贄を捧げることは止んだはずです。
しかし、毎年、捧げられる生贄によって、人々が罪を意識すると言うことは、生贄によって罪が完全に赦されないことを律法が言っています。
3節:「罪が年ごとに思い出される」とは、神が罪を覚えていることであり、罪には神の裁きが伴います。 「生贄、捧げもの、全焼の生贄、罪のための生贄」律法に従って捧げられるこれらは、大きく分けると、贖いと献身の意味があります。
キリストは永遠の生贄として、ただ一度ご自身を捧げられ完成されました。
キリストの従順を通して、古い契約から新しい契約に移り、罪の贖いが完成したのです。律法は、キリストが神に従う事を通して成就しました。
12節に「神の右の座に着き」と書かれていますが、これは、罪の贖いの業が完了したことを表します。
17節で、新しい契約によって罪が完全に贖われたので、神がもはや罪を思い出すことはないと言っています。
しかし、ユダヤ人たちは、ユダヤ教からキリスト教に回信したにも関わらず、古い行いに戻ろうとした傾向があったので、18節で、罪の贖いはキリストの十字架によって完了している。罪のための捧げものは、もはや無用ですと言っているのです。
赦されたと言う所に立つことが大切です。
私たちも完全に赦された者として、神の御心を行うなら、キリストが十字架でなされた恵みが至る所で現わされるのです。
(文 青木)