主日礼拝説教要旨
2012年12月16日 中谷桂子伝道師
へブル人への手紙連続講解8回目 4章1節~13節
「信仰をもって神のことばを聞く」
今日の神の民には地上の安息の実体として、真の神の安息が約束として残っています。しかしこの安息は自動的に得られるものではありません。だから私達は「恐れる心」を持つことを勧めています。恐れる心とはどんな心でしょうか?それは 神を正しく認めること・神の言葉を正しく聞くこと・そして従うという心です。ただ聞くだけではなく、どんな困難な状況の中でも、主に信頼し、神の言葉に従い続けることなのです。それが信仰を持って聞くことであり、信仰によって結び付けることです。実はこのことが 私達を「神の安息に入る」大きなポイントとなるのです。
「私の安息」とは、詩篇95篇で言われている福音を中心とする神の言葉を 信仰を持って聞き従うものが入る 神の安息のことを意味しています。福音の言葉を信仰を持って聞いた私達が 今ここで「安息に入る」のではなく、その信仰を終わりまで持ち続ける者が「安息に入る」のです。神の安息は、創造の御業の完成の時からすでに始まっており、今も続いています。イスラエルがこの安息に入ることができなかったのは、不信仰になり主に従わなかったためです。神の言葉が語られるその時が「きょう」であり その言われている間に、悔い改め 心をかたくなにせず 主に従う歩みを続ける必要があるのです。ヨシュアに率いられたイスラエルの人々が入った安息は地上的安息(安住の地)でした。神の民にはこれと区別された神の国における安息が まだ残されているのです。「神の民のためにまだ残っている」安息は、「安息の休み」と呼ばれています。これは「神ご自身の安息にあずかる」 つまり「安息に入る」という意味です。神が創造の御業を完成され休まれたように、イエス様が地上での御心を全うし安息に入られたように、信じる私達が地上で主の御業を全うすることが語られています。私達が真の神の安息に入るためには、この地上において主の御心を行うことはとても大切なことなのです。
神の安息に入るためには 「神の言葉」が鍵となります。なぜなら神の言葉は必ずそのようになるからです。そして神の言葉は 私達の心を判別することができるのです。この神の言葉に触れその教えに従うことは、私達を神の祝福へ導くと共に、真の神の安息に入る鍵でもあるのです。
人は最後の裁きの時に 全員主の御前にでなければなりません。その時、私達が永遠の安息に入るためにも 「きょう」と言われている日のある間に、神の言葉によって自分の心を知り 罪は悔い改め 神の憐みにより頼みながら、信仰の歩みを全うしてまいりましょう。(文 小川)