破られない約束

 手の中に、一枚のあたりつきくじ引きの券があるとします。
 それを引きに行くかどうかは、迷うところでしょう。
 しかし、それが絶対1等賞に当たっているものであるとしたらどうでしょうか。
 たいていの人が足を運んで引き換えに行くのではないでしょうか。
 当たりくじは、紙一枚です。しかしそれはただの紙ではなく、賞品と同じ価値のあるものなのです。

 神の約束は、まさにその当たりくじなのです。その言葉はその言葉どおりの「約束の成就」をすでに手にしているのと同じだけの力があるのです。人の約束は、確実なこともあれば、「口約束」と言われるようにあいさつ程度のものもあります。また、果たそうと思っていても不可抗力でできないこともあり、果たされてもこちらの予想外の成就もあるのです。
 しかし神の言葉は、その言葉どおりの成就を必ず私たちに約束するのです。

 あるとき、私は神様にある海外宣教のチームに参加するように、そう語ってくださった気がしました。祈っていくと、「私が遣わす」という聖書の言葉が心に響いて、確かに神様は今、私にこの言葉を語っているのだという確信がわいてきました。
 しかし、私はその当時会社員でした。宣教チームは10日も休みが必要になるのです。会社員が10日も続けて有給を取るというのは、常識はずれのことでした。

 上司に言わなければ、そう思っても言い出せないのです。
 しかし、神様の言葉がありました。「私が遣わす。」だから、まず荷物をつくりました。10日間の着替えや、非常食を詰めて、そしてもう行くばかりに整えたのです。
 それでも上司の顔を見ると、言葉が出ません。心のうちでは聖霊が私を押し出そうとしてくださっているようでした。神様と現状に挟まれて、葛藤しました。
 期限ぎりぎりになって神の言葉を選ぶことにしました。思い切って言ったのです。「休みを10日間ほしいのですが。」
 答えは意外なものでした。「仕事が大丈夫ならいいよ。」…あっけなく扉は開かれました。

 その有給休暇がどれほど常識はずれのものであるのか、許可した本人がずっと「なぜ許可したのだろうか…?」と言って、「もし、まだ間に合うなら止めてくれないか…?無理ならもういいけど。」と後で言ってこられたことでもわかります。神様が働いてくださったとしか思えませんでした。
私にとっては無理だろうと思える道でした。しかし神はそう思っておられなかったのです。そして私に「約束」をくださったのです。

 人の約束は、結ばれた後、それが成就できるように努力する必要があります。しかしできることもあればできないこともあるのです。だから裏切られた思い、裏切ってしまった思いで、人は期待することは痛みと引き換えなのだと知るのです。
 しかし神の約束はそのようなものではありません。ただ信じてそのとおりになるのを、神に感謝しつつ従いつつ待てばいいのです。この希望にはかげりがありません。神様は真実だからです。
 神の約束は確かなのです。