平安を感じるとき
平安とは、いつ感じるものでしょうか。
心も、また生活も満たされているとき、不安や心配事のないとき、願いがかなったとき…。あなたの平安は、何に左右されますか。
パウロという人がいました。彼は神を愛し、神に仕えることを喜びとし、生活も、今で言う学歴も地位も、すべてなげうって、伝道にかけていました。
彼には多くの困難がありました。貧しかったし、迫害もされ何度も殺されそうになったし、愛し熱心にその成長を見守ってきた友や弟子に裏切られたりもしました。挙句、彼は捕らえられ、彼が救いを熱心に祈り続けていた同国のユダヤ人の手によって、ローマに売られたのです。
しかし、驚くことに、彼はこう語っているのです。
「私は、すべてのものを受けて、満ちあふれています。」
私達に初めて与えられた子どもは、6ヶ月のとき、心臓が止まりました。動いていない心臓のモニターを見つめながら、医者は絶句しました。私達も耐えがたい悲しみがありました。
そのときに聖霊なる神が言われたのです。
「あなたの望みはなんですか」
この子が生き返ること。私達はそのために必死で祈りました。この悲しみを感謝しつつ、心から、時を惜しんで。
しかし、神の御心は、その子を天に上げることでした。神様に「恵(めぐみ)」という名前をもらい、赤ん坊は本当に短いこの世での命を終えました。
不思議なことがありました。
親として、その子に対する愛と、抱きしめてあげたいという望みは尽きませんでしたが、苦しみはもう私達のうちになかったのです。怒りも悲しみも後悔も。私にとって、これは他人事のように不思議な感覚でした。
聖書にあります。
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
まさに、この平安が私達をおおってくれていたのです。
もちろん神は、祈る前からすべてをすでにご存知です。
しかし、私達の心のうちを、「感謝をもってささげる祈りと願い」で、神の前に注ぎだし知っていただくとき、「すべての考えにまさる神の平安」が私達を守るのです。
平安は、願いがかなえられてからくるのではありません。
それよりももっと早く、もっと近くに、私達の平安はあるのです。
この平安は、全能です。どのような問題の渦中にあっても、どのような解けない難問の中にあっても、与えられるのです。
キリストが、私たちと、ともにおられるからなのです。