悔い改め

私たちの人生に失敗はつきものです。
 原因は、運であったり、見当違いであったり、ちょっとした過失であるかもしれません。
 また、あることは自分の罪からくるものであるかもしれません。 
 失敗をとおして自分の罪を思い知るとき、私たちの心は深く責められ辛く苦しいものです。そして、どうして、なぜ、こうしていれば、こういう自分であれば…と反省と後悔がやってくるのです。

 ペテロという、イエス・キリストの一番の弟子がいました。彼はイエス・キリストが十字架につく前、「お前もあのイエスの仲間か?」と役人に問い詰められます。しかし、自分が捕まってしまうことを恐れた彼は、「そんな人は知りません。」と、強く否定してしまうのです。
 枷をかけられたイエス・キリストを見て、そして、イエス・キリストのあわれみ深いまなざしに見つめられて、彼は自分のしたことに気づき、愕然とするのです。
 愛する主を裏切ったという自分の犯した罪を。
 彼は泣きました。もう、一番弟子であるという誇りも失いました。イエスと共にいたときにもっていた神の国の宣教に対する自信もすべて失いました。彼は元の一漁師に戻ろうと、自分にはそれが精一杯、という気持ちにすらなったのです。

 しかし、彼は復活後の主にお会いします。そして、主に3度、「あなたはわたしを愛しますか?」と聞かれるのです。彼の心は痛みました。愛します、あなたがわたしの心をご存知でしょう…?と答えながら、こんなにも愛する方を裏切った自分の罪を、きっと、今までの中で一番深く心から悔いたのに違いありません。

 「わたしの羊を飼いなさい。」
 その後、主が語られたのは、再び彼を召す言葉でした。

 それから、主をすら裏切る弱いペテロはどうなったでしょう。
 彼は今までにないリーダーシップを発揮し、神の力をもって宣教の基礎を築き上げ、初代教会の中心となるのです。彼のメッセージで一度に3千人が救われ、大きな働きが起こっていくのです。
 もはや少し前までの彼ではありませんでした。

 十字架の元にある悔い改めは、ただの反省ではありません。
 悔いた心に、神の力が注がれるのです。後悔は人を奮起させることがあるかもしれません。しかし努力の域を超えることはないのです。
 神が、悔いた魂に与えられるゆるしとあがないは、人をさらに栄光の姿へと変えることができる、力あるものなのです。

 罪が見えることは、苦しいものです。
 しかし、そこが主の恵みの始まりでもあるのです。
 悔い改めを求めてください。そして、悔い改めたらゆるされる、そのことを信じなくてはなりません。あなたは自分をゆるせなくても、あなたを造られた主がゆるされるからです。
 そして、罪を認め悔いたときから、神の恵みの御手は、あなたを覆い始めるのです。