感謝

 神の考えは人の考えとは違います。
 それは、大人と赤ん坊の考えの差よりももっと大きく、またもっと高いのです。

 愛する子供が、学校でつらい目にあいました。ある程度は彼の性格や至らなさゆえであったのです。ですが、彼の努力ではどうしようもないことありました。そこには誤解があったり、それぞれの環境の差であったり…。自分でもどうしてよいかわからず、彼は毎日泣きながら通いました。毎日泣きはらしてぐったりして帰って来る彼をみる私も、とても痛みました。
 どうにかしてやりたい、そう考えたのです。
 いろいろ策を練りました。校長先生に言ったらいいか、いや、教育委員がいいか…。いろいろな人に相談した結果、やはり教育委員会がいいのではないか…。

 しかし、神の考えは違いました。
 だれにも訴えることなく、ただ、感謝せよ、と。
 あなたも神に許された存在、だから全てを感謝して許すように、と。神が働くから、あなたは何もするな、と。

 そう語られても、私の心中は穏やかではありませんでした。現に子供が深く傷ついているのです。その子を毎日見ているのです。
 しかし、神の語りかけの「とどめ」がありました。「全ては福音のためです。」

 私は感謝することにしました。
 はじめは搾り出すように、でした。感謝します、と言いながら、苦しくてたまらないのです。しかしし続けました。そして神が語られたように、誰にも訴え出ることはしませんでした。

 あるとき、面談という形で話し合いのときがあり、呼び出されました。私は気が重く、行きたくはありませんでした。しかし神さまがこのときを導かれたのかもしれない…、そう思い、ただ感情的に対応しないよう、感謝できるよう、みこころだけを行なえるように祈りました。
 そして思いもかけず、相手の質問に答えるという形で、福音に触れ、また感謝について語る時が与えられたのです。15分の面談の時間が2時間になっていました。

 神様の計画は最善でした。
 次の日から、子供が帰って来るなり、「今日は楽しかった!」というのです。つらくてつらくて仕方なかったその取り扱われ方が、その日はなかった、と言うのです。その変化は、私も驚くばかりでした。
 そして彼のほうも、前向きになっていきました。ぼくも変わらなくっちゃ、そういって自分からいろいろな目標を語りだしたのです。
 思ってもみない解決でした。
 私は何もしなかったのです。ただ、感謝して、与えられた機会から逃げなかっただけだったのです。

 神の考えは人の考えより、はるかにまさるものなのです。
 問題はゆるされるでしょう。しかしその問題が、素晴らしい祝福のまさに入り口であるかもしれないのです。
 私たちの対応が、それを決めるのです。感謝してゆだねるなら、神の計画を最後まで見ることができるのです。

 感謝してください。そして、神が言われたことに従ってください。