罪のゆるしと十字架



 2000年前のゴルゴダの丘に、3つの十字架が立ちました。十字架刑は、当時の極刑でした。両端には、2人の強盗た
ち、そして真ん中には、イエス様がつけられていました。

 イエス様の罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書かれていました。彼には、罪がありませんでした。しかし、ユダヤ人宗教学者達のねたみによって、そこにつけられたのです。
「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
 自分を殺せ、というシュプレヒコールの中、イエス様は、叫ぶ人々のために祈られました。

 私たちは、例外なく罪びとです。罪は私たちに死をもたらし、死は私たちから真の自由を奪います。この罪の縄目にとらえられた私たちをそこから解き放つために、イエス・キリストは私たちの身代わりとなって罪の罰を受けてくださったのです。

 苦しい十字架の上で、片方につけられた強盗の一人が、イエス様のことをじっと見ていました。はじめはもう一人とともにイエス様に悪態をついていたかもしれない彼が目にしたのは、自分をののしる人々のために、真剣に祈る御子キリストの姿でした。その姿に、彼の心は溶かされていきました。
「イエスさま。あなたの御国の位にお付になるときには、私を思い出してください。」
 極刑につけられるほどの人生を歩んできて、今、命は尽きようとしています。彼にできることは悔いることのみでした。改心したとて、これから彼に、どんな罪のつくないができるでしょうか。だから、『思い出してほしい』、それが、彼が望める最大の希望でした。
 イエス・キリストは彼にこう答えました。
「今日、あなたは私とともにパラダイスにいます。」
 イエス様は彼に、罪なき者のみが住まうことのできる「天国」を約束したのです。

 私たちは、罪人です。だからこそ、私たちがこの罪から救われるために、罪なき神の御子イエス・キリストの身代わりの十字架が必要だったのです。私たちが、自分の罪を認め悔い改め、イエス・キリストの十字架が自分のためのものであることを告白するとき、その罪の一切の縄目、死からさえも解き放たれるのです。

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